最近送られてくる転送メールで、気になったことがある
ので、まずそれについて書いておくことにするが、「伝道」
(propagation) と「宣教」(mission) が混同されているよ
うに思える。確かに、日本聖公会の多くの聖職者達の中で
は、この言葉を混同して使っていたり、あるいは「『伝道』
と言わずに、いまは『宣教』という」という程度の理解し
かできていないのだろう。拙者も、そう思わされたことが
実際にあった。しかしこれは、教会のあり方に関して、神
学的に大きな転換を表している言葉なのだ。「伝道」は自
分たちが継承してきた信仰を広めていくことだ。"propaga-
tion"は、だから、「宣伝」「普及」あるいは「蔓延」と訳
されることさえある。しかし、"mission" は意味がまった
く異なる。
これは"missio dei"の神学的視点に裏打ちされている。こ
の"missio dei"は「神の宣教」と訳されているが、神がこの
世にあって、いま正に何をされようとしておられるかという
問いから、教会がこの世にあってどのようにその神の宣教
(御業)に仕えるかということを考えることを意味している。
この考え方が日本の中で広がったのは、1969年頃からだっ
た。ことに、万博キリスト教館建設問題で、日本のプロテス
タント教会が大きく揺れ動いた頃だ。ただ、あの時にキリス
ト教館建設に携わった聖職者の多くは既に亡くなられている
が、その根底にはそれぞれの神学的視点があったことは間違
いないし、拙者もそれに心を傾注していた。しかし、あの時
代に日本聖公会は、まったく逆の対応しかしていなかった。
日米安保条約に反対し、万博キリスト教館建設に反対してい
た神学生を、いとも簡単に排除してしまった。その経緯を誰
から聞いたか判らないが、天狗がよく知っている。
あの時も、日本聖公会は一部の権力者によって、日本聖公
会全体が沈黙させられたそうだ。そして、何事もなかったか
のように1970年以降の歩みを続けてきたと、ある日本聖
公会の聖職者が言っていた。そして、神学教育の中で"propa-
gation"と"missio dei"の間にある、非常に大きな相異を日本
聖公会の聖職者達がどのように理解してきたか、そして、
1970年以降の聖職者達がどのように、この世の現実を直
視してきたか、この二つの言葉が理解されずに使われてきた
ということを考えると、彼らの中に本当に神学する主体が形
成されているかどうかに疑問を持たざるを得ない。これはひ
とえに、神学教育の内容に関わってくることなのだろう。
神学教育とはそもそも、神学する主体の形成を目的にして
いなければならない。だから、神学者の主張をそのまま押し
つけることではなく、神学生のそれぞれが、自ら神学徒とし
て生きていくための基礎を培い、神学教師はそれを側面から
指導しなければならないのだが、残念なことに、ある時期か
ら日本聖公会の神学校では、特定の考え方に縛られてしまっ
ていたらしい。日本聖公会の聖職者達の中で、フェミニズム
を容認するような発言があったことを耳にした人物から聞い
た。片方ではローマ・カトリック教会に近づきながら、しか
し片方では、女性司祭按手を行ってしまった。そして、女性
に司祭按手を授けた直後に、「主教はまだまだだな」という
声が聞こえてきたという。それを話してくれた人物は、「彼
らはどのような神学的根拠を持って、古い伝統をいとも簡単
に破棄してしまったのか判らない」と話していた。神学校を
卒業したら、もう神学しなくてもいいという聖職が多すぎる
のではないのか。日本聖公会の管区小審判廷の判断は、神学
的であると同時に、教会法的にも理にかなったものであるこ
とを祈っている。
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