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Posted by 沖田 総司 - 2008.04.27,Sun


 例の<FH司祭問題を駁す>というブログの管理人が誰かやっ

と判った。拙者はてっきり鞍馬天狗だと思っていたが、天狗では

なかった。天狗はいま、膨大なデータと格闘しているそうだ。眠

気覚ましにあなたの書き込みを分析しただけだと言っていた。


 「卒園生の母親」さん、彼はあなたの倍以上の歳の人だ。そし

て、高校生の時から70年安保闘争を戦い、哲学書や思想書を読

みまくっていた人だ。カントやヘーゲルどころかフォイエルバッ

ハまで読んでいたらしい。あなたは、自分は何でもよく判ってい

ると思っているように拙者には見えるが、あなたは新書版の本を

1冊、何時間で読めるかな。


 彼だけでなく、読み慣れている人間には1時間半もあれば新書

版程度は読める。そして、自分にとってどこが利用できるかを判

断できるが、学生時代に徹底的に訓練を受けたからだ。そして、

同時に、論理的思考を徹底的に訓練されている。神学だけでなく、

あらゆる議論は常に論理的整合性を持っていなければならない。

インターネット上の議論でも同じだ。と同時に、神学はその用語

や表現に関しては、非常に厳密に考えている。あなたは、「子供

たちはあの司祭から『イエス様』の話を聞き、共に祈り、穢れた

行為をしたとされるその手で神の名による祝福を受けてきたので

す。」と書いているが、「神の名による祝福」を司祭がすること

が出来るという聖書的根拠を教えていただきたい。日本聖公会の

祈祷書の中にそうした表現があるのだろうか。


 これは単に言葉上の問題ではなく、教会の教理の根本に関わる

問題だと拙者は思っている。例えば、日本聖公会の聖餐式の最後

で、「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともに

ありますように、アーメン」と主教もしくは司祭が祝福するが、

あの祝福は「神の名によって」為されていることなのだろうか。

これはそして、教会の教理だけでなく、聖職論にも深く関わって

くることでもある。まさか日本聖公会では、聖職按手を受けると

聖職者として必要な神学的知識も与えられるとは考えていないだ

ろうと思うが、「神の名によって」という定型句を教会は本当に

歴史の中で用いてきただろうか。また、何故「イエス様」と鍵括

弧を付けたのか。拙者の基準からするとこの鍵括弧は、主イエス・

キリストの意味をまったく弱めてしまうのだが‥‥‥

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