忍者ブログ
Posted by - 2024.09.22,Sun
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Posted by 沖田 総司 - 2008.11.15,Sat


 ある日本聖公会の司祭から聞いたことがあるが、

主教判断で祈祷書の一部を変更して礼拝で用いるこ

とが出来るという「暗黙の了解」が日本聖公会には

あるらしい。このこと自体は他教派の習慣だから、

日本聖公会以外の人間がとやかく言うつもりはない。

しかし、これでは日本聖公会は困らないだろうか。

日本聖公会は祈祷書で一致しているのであって、神

学で一致しているのではないという見解も耳にした

ことがある。つまり、日本聖公会の一致が祈祷書で

あるのであれば、主教はその一致点をも当該教区内

で変更することが出来るということになる。


 「それが日本聖公会の伝統なのだ」というのであ

れば、日本聖公会は神学においても、教会法におい

ても、教会としての根本的な基準がないことになる

だろう。聖公会の「綱憲」の第1に「旧約および新

約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る要道

を悉く載せたものと信ずる。」とあるが、アポクリ

ファはどうなるのだろうか。アポクリファを聖書と

して認めるのか認めないのかで、教理的には実に大

きな相異が出てきてしまうのだが、これに関しても

教区主教の判断なのだろうか。あるいは、ニケア・

コンスタンチノポリス信条の「フィリオクエ」もし

くは「フィリオケ」、あるいは「神よりの神」に関

しては、日本聖公会では主教判断で自由に唱えたり

唱えなかったりすることが出来るのだろうか。


 ローマ・カトリック教会でさえ、こうした極めて

重要な部分に関しては、教皇が最終判断をする前に

長い時間と多大な労力をかけて神学的議論が為され

るのだが、日本聖公会では、教会の生命線とも言え

るこうした問題に関して、すべて主教が判断できる

と考えているのであれば、主教は極めて高度な神学

的知識を保っていることが条件になるはずなのだが、

主教候補者になるための試験があるということを聞

いたことがない。「変えなければいいのだから、そ

うした知識は必要ではない」という意見もあるかも

しれないが、「神学的熟慮なしに、教会の教理に関

する重要な判断を主教がすることが出来るのである

とすれば、それこそ正にカルト性を日本聖公会が保っ

ている証拠だろう」と言っていた方がいた。


 こうした基本信条を、牧師が自由に変えられると

いうプロテスタントの教会に出会ったことがない。

東方教会系の方が礼拝に出席して、「フィリオクエ」

の部分を読まなければ陪餐したいと申し出られたら、

その時は「フィリオクエ」の部分を読まないという

教会があることは知っているが、それもかなり厳密

な議論をして、教会として決定したことであって、

ただ牧師が独断で決めたことではないという。そう

したことと対比すると、日本聖公会の神学的営為自

身を根本から疑いたくなる。また、そうした厳密な

学としての神学を無視している教会で、児童に対す

る性的虐待事案を裁けないのは当然なのかもしれな

い。願わくは、主が被害者とそのご家族と共にいて

下さり、深い慰めを与え給わんことを。アーメン。

PR
カレンダー
08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
沖田 総司
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
Template by mavericyard*
Powered by "Samurai Factory"
忍者ブログ [PR]