「主日の御言葉」というブログに説教が記されているが、「聖公
会にはああいう説教の習慣はない」と言っている司祭がいるそうだ
が、いつものパターンだな。日本聖公会としてきちんとした神学的
コンセンサスはないのに、自分が知り得ている知識が聖公会だと思
い込んでいる司祭が多すぎる。「マリア信仰」に関して、聖公会と
ローマ・カトリック教会が歩み寄ったとしているが、天使祝詞を唱
えることは「偶像礼拝だ」と考えている司祭や信徒が日本聖公会の
中にいることははっきりしている。ハイ・チャーチとローチャーチ
の相異かもしれんが、日本聖公会に共通した神学的基盤はないだろ。
そもそも日本聖公会を一致させているのは祈祷書であって神学で
はないというのが、日本聖公会の神学ではないのか。だからこの祈
祷書以外の、たとえば綱憲なども単なる指針で、洗礼と聖餐という
二つだけを聖奠としている「綱憲」に反する見解を持っている司祭
もいるだろう。拙者が知っている司祭は「残りの五つは準サクラメ
ントです」とはっきり言っていたぞ。それも一人や二人ではない。
何人もの司祭の口からそれを聞いた。そして、その後で必ず口から
出てくるのは、考え方の異なった司祭を「あの人の考えは聖公会の
神学から少し離れている」という言葉だ。
では一体、「聖公会の神学」というのは何なのか。それを質問す
るとほとんどの司祭は口を閉ざす。そして最後には「ローマ・カト
リック教会と交わり」を口にして、自分たちを正当化しようとする。
しかし、ローマ・カトリック教会の『新教会法典』やディンツィン
ガー&シェーンメッツァーの『カトリック教会文書資料集』を座右
においている司祭はどれくらいいるだろうか。拙者が知っている限
りではほとんどいないように見える。あっても中を開いたことがな
いという司祭もいるようだ。所謂『公教要理』さえ読んだことがな
い司祭もいる。そういえば、日本聖公会に『公教要理」に該当する
ような文書があるのか。まさか『三十九箇条』がそれだとは言わな
いだろうな。司祭の中で、『三十九箇条』の原文が手元にあるとい
うのが何人いるか。そして、『三十九箇条』の神学を受け入れてい
ない司祭が何割いるか。
あの「主日の御言葉」というブログにあるものを聖餐式で使うな
よ。みっともないぞ。それから、あれを批判というか非難するなよ。
そんな時間があったら、しっかりと説教の準備に時間をかけろよ。
明日の説教はもう出来上がっているだろうしな。土曜日になって書
き始めているようでは、ろくな説教はかけないぞ。そして、毎日、
半日は書斎にいろよ。他人の神学の受け売りをするなよ。信徒があ
れを読んでいるかもしれないからな。毎日かなりの数のアクセスが
あるようだ。おそらく、日本聖公会の信徒が読みに来ているのだろ
う。それは仕方がないな。あのメヒコ佐々木という司祭はそれが目
的で書いているみたいだ。日本聖公会の教会を離れて、しかしどこ
の教会へも行っていない信徒のために書いているように思える。神
学がなければ信徒は躓く。当然のことだ。皆、信仰の世界を知りた
くて教会へ来ているのだからな。
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