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Posted by 沖田 総司 - 2008.09.19,Fri


 教会法における審判は、一般社会の法体系下の裁判と

は基本的に異なっている。事件そのものが、当該社会の

法体系に違反しているかどうかを、教会の審判は問わな

い。教会の審判はただひたすら、その事案が聖書の御言

葉と教会の歴史=伝統に違反していることであるかどう

かを問題にする。と同時に、教会の罪に関しての時効は

存在しない。原罪に関する聖書の理解は、それを明らか

にしている。そして、罪の悔い改めと洗礼が、その原罪

から離れる唯一の道であることを、聖書は高らかに宣言

している。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラ

ヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国

は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

というマルコ福音書の冒頭のメッセージはそれを意味し

ている。(引用は日本聖書協会『新共同訳聖書』)


 それ故に、罪の悔い改めのないところには、キリスト

の十字架の贖罪も存在し得ない。そして、勿論、そこで

は、あのキリストの繰り返し犠牲としての聖餐を行うこ

とは出来ない。「ふさわしくないままで主のパンを食べ

たり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して

罪を犯すことになります。」というパウロの言葉は、キ

リストの十字架による罪の贖い=犠牲を想起することな

しに、そして自らの罪を悔い改めることなく、聖餐式を

捧げることは、「主の体と血に対して罪を犯すことにな」

るのだということを意味している。そしてこれは、決し

て形式的なことを告げているのではない。聖餐式の中で

罪の告白と懺悔、そしてそれに対する赦しの宣言が、信

仰的に行われることを求めている。


 宗教改革は、これがある意味で形式化し、あるいは形

骸化したことに対するアンチテーゼでもあったように思

える。事実、カルヴァンの教会における礼拝形式は、現

在のローマ・カトリック教会の典礼文とその順序におい

て大きな差はない。そして、確かに、プロテスタント教

会においても、「エクス・オペレ・オペラート」の神学

は継承されてきている。そうした意味では、FH司祭が

在任中に行った聖餐式は、間違いなく聖餐式であったと

言うことが出来るが、しかし、聖餐式をするのに相応し

くないと思えることをFH司祭が行ったことは、京都教

区は既に認めているのだから、審判廷において明確にそ

の職務執行停止を宣言する必要がある。でなければ、日

本聖公会は聖餐の神学を放棄したことにならざるを得な

いだろう。


 それだけではない。日本聖公会京都教区は、被害者に

謝罪するどころか、被害者の関係者の名を騙って自らの

行為を正当化する文書を日本聖公会の全教会と関係団体

に送付したという。あの有名な、「なお、この文書は被

害者の関係者の方の了解のもとに出しておりますことを

申し添えます。」という文書だ。これに関しては、鞍馬

天狗は、被害者の関係者に直接面会して確かめてきた。

彼が言うには、その関係者の方は、あの文書をご覧になっ

ていないとおっしゃっていたという。日本聖公会京都教

区は、この件に関して、訂正も謝罪も行っていないとい

うが、だとしたら何故、日本聖公会京都教区は聖餐式を

続けてくることが出来たのか。教会が教会として立ち続

けるための最低要件が満たされていないにも拘わらず、

日本聖公会京都教区は何故そのことに気が付かないのか。

神学の貧困としか言いようがない。貧困の神学は素晴ら

しいものがあるが、神学の貧困は教会として最悪の事柄

ではないだろうか。

 

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