例の<FH司祭問題を駁す>というブログの管理人が誰かやっ
と判った。拙者はてっきり鞍馬天狗だと思っていたが、天狗では
なかった。天狗はいま、膨大なデータと格闘しているそうだ。眠
気覚ましにあなたの書き込みを分析しただけだと言っていた。
「卒園生の母親」さん、彼はあなたの倍以上の歳の人だ。そし
て、高校生の時から70年安保闘争を戦い、哲学書や思想書を読
みまくっていた人だ。カントやヘーゲルどころかフォイエルバッ
ハまで読んでいたらしい。あなたは、自分は何でもよく判ってい
ると思っているように拙者には見えるが、あなたは新書版の本を
1冊、何時間で読めるかな。
彼だけでなく、読み慣れている人間には1時間半もあれば新書
版程度は読める。そして、自分にとってどこが利用できるかを判
断できるが、学生時代に徹底的に訓練を受けたからだ。そして、
同時に、論理的思考を徹底的に訓練されている。神学だけでなく、
あらゆる議論は常に論理的整合性を持っていなければならない。
インターネット上の議論でも同じだ。と同時に、神学はその用語
や表現に関しては、非常に厳密に考えている。あなたは、「子供
たちはあの司祭から『イエス様』の話を聞き、共に祈り、穢れた
行為をしたとされるその手で神の名による祝福を受けてきたので
す。」と書いているが、「神の名による祝福」を司祭がすること
が出来るという聖書的根拠を教えていただきたい。日本聖公会の
祈祷書の中にそうした表現があるのだろうか。
これは単に言葉上の問題ではなく、教会の教理の根本に関わる
問題だと拙者は思っている。例えば、日本聖公会の聖餐式の最後
で、「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともに
ありますように、アーメン」と主教もしくは司祭が祝福するが、
あの祝福は「神の名によって」為されていることなのだろうか。
これはそして、教会の教理だけでなく、聖職論にも深く関わって
くることでもある。まさか日本聖公会では、聖職按手を受けると
聖職者として必要な神学的知識も与えられるとは考えていないだ
ろうと思うが、「神の名によって」という定型句を教会は本当に
歴史の中で用いてきただろうか。また、何故「イエス様」と鍵括
弧を付けたのか。拙者の基準からするとこの鍵括弧は、主イエス・
キリストの意味をまったく弱めてしまうのだが‥‥‥
<いいたい放題>というブログの設置者である風来坊氏に電話
が通じた。<FH司祭問題を駁す>にあった例の書き込み人は、
以前に風来坊氏のブログのコメントにいろいろ書き込んだ女性で
はなかろうかと問い合わせたところ、風来坊氏も間違いないだろ
うとの意見だった。だとしたら、あの女性は独身ではないのか。
それに、彼女が住んでいるところはS幼稚園の周辺ではないはず
なのだが、何故ビラの内容を知っているのか。
先ほどまで、壬生の屯所で近藤さんと一緒だったから、近藤さ
んにも尋ねたが、近藤さんも同様の意見で、「誰かに書き込みを
依頼されたのだろう」というのが近藤さんの見解だった。確かに
それはあり得ると拙者にも思える。それにしても、依頼する人も
依頼する人だ。自分で書けばいいだろう。それとも、あの女性は
自分で内容を考えて書いたのだろうか。
ビラを配ることを暴力というのであれば、H司祭が9年間の間
被害者にし続けた性的虐待は一体何だったのか。そして、そのH
司祭に日本聖公会京都教区はどう対応したのか。あのS幼稚園の
理事半数以上はS教会関係者であり、その中には日本聖公会京都
教区主教も入っている。退職金支給を決定した理事会に、たとえ
欠席していたとしても、主教にも重大な責任があることは火を見
るよりも明らかであろう。
そして、ビラを撒くことは暴力だと言うのであれば、あの書き
込みをした人は、一方的に国民に流されている情報に関しても暴
力だと叫ばねばなるまい。テレビや新聞は、かなり露骨にわいせ
つ事件を報道している。彼女は、子供にはテレビを見させず、新
聞も読ませないのだろうか。しかし、子供はどこでそうした情報
に触れるか判らない。子供と一緒に、その子供の年齢や知的理解
度を考慮した上で、問題を一緒に考える方が真の教育に近いので
はないのか。でないと、クリスチャンの家庭で、子供に聖書を与
えられなくなる。トーラーには、かなりきわどい律法が書かれて
いる。だから、小学生の机の上にある聖書にもそれが書かれてい
るということを認識して欲しいものだ。
「昨日19日、土曜日
わいせつ事件の第2の教会となった、
京都教区 聖光教会の幼稚園周辺、京都市左京区松ケ崎地域に
約2500枚の事件解決の訴えが、地元に全戸配布されました。」
こう記されたメールが転送されてきた。
凄いパワーだ。ここまでやれるだけの信念があるのだろう。そ
もそも、準強制わいせつ事件の慰謝料請求裁判係争中の園長に、
こともあろうに慰謝料と裁判費用の合計額相当の退職金を支払う
ということを、その園長自身が理事長でもある理事会で決定した
ということは、誰が考えてもおかしいことだ。そして、その問題
性を追求した監事を更迭するということまでしたのだから、問題
はさらに深刻化している。
おそらく、そのビラが配布された家庭で、家族にS幼稚園の卒
園生がいる家庭では、ご自分の子供に対して準強制わいせつが行
われていなかったかどうかを、どうやって子供に確かめるかに苦
しんでいらっしゃるのではないだろうか。そう言えば、昨夜はH
司祭による性的虐待事案が記されているブログへのアクセスが、
かなり遅くなっているところがあった。拙者のこのブログさえ、
既に7000アクセスを超えている。今日の日曜日、礼拝の後で
何人かの信徒の方々から、この事件に関する質問を受けた。当然
だろう。女児に対する性的虐待の事案だ。最近は、こうしたわい
せつ行為に関して、被害者の年齢の差によってこの事案のもつ意
味が大きく異なっていることは、新聞やテレビで報道されている
から、かなりの人々がある種の恐怖感をもつだろうことは想像に
難くない。
先日の理事会で、H司祭に対して支払われた退職金の問題が指
摘されても、理事会は返還要求を出すことを拒否したのだから、
このことに関して、多くの人々が極めて大きな疑問を持つだろう。
そして、H司祭が前任地だけでなく、S幼稚園の在職中にも性的
虐待行為を続けていたことを知り、それに対する日本聖公会京都
教区の対応の欺瞞制をはっきりと知ってしまったと思われる。こ
のことを学校法人の経営責任を負っている理事会がどういう判断
をするかが問題になるだろう。理事長は、前理事長の準強制わい
せつに対する慰謝料請求裁判の裁判記録を閲覧してこなかったし、
少なくとも最近まで「読もうが読むまいが私の自由だ」と言って
いたわけだから、それ自身が理事長の職務怠慢であると考える人
々が出てくるに違いない。
そして、もっとも重大で重要な問題がまだ隠れている。それは
H司祭の居所の問題だ。ヨーロッパやアメリカでは、この手の犯
罪の加害者に関しては、GPSによる位置確認システムが取り入
れられているが、日本でも政府はこれに関して取り入れる方向で
検討しているようである。しかし、H司祭の居所に関しては未だ
に明らかにされていないから、人々はある種の恐怖感をもってい
るだろう。日本聖公会京都教区には、こうした一般市民がもって
いる恐怖感にも責任があるだろう。そして、その責任を果たして
日本聖公会京都教区が感じているかどうか。新撰組は、原田の居
所に関して、かなりの所まで絞り込むことが出来た。幼稚園の保
護者の方々のあいだでも、多くの情報が飛び交うだろう。京の町
など狭いものだ。友人や知り合いがあちこちにいることが多いだ
ろう。ひとの口に戸は立てられない。
日本聖公会京都教区は何故、H司祭を裁けないのか。これだけ
性的虐待の事実が明るみに出されているにもかかわらず、京都教
区は何故、退職金の返還要求をしないのか。これは誰が聞いても
おかしな話なのだということを、京都教区は何故理解できないの
か。新撰組では、他に何かもっと重大なことが隠れているのでは
ないかと思っている者が多い。
通常であれば、民事裁判を提訴された時点で「有期停職」にし、
判決が確定した段階で「終身停職」にするのだが、日本聖公会は
これを否定する何かを持っているのだろうが、日本聖公会法憲法
規を見る限りでは、それを否定する根拠はまったくない。むしろ、
法憲法規を見る範囲では、これが当然のことであったと思われる
だけでなく、「陪餐停止」という処罰を、主教であっても審判廷
の審判を経ずして、H司祭に科すことは出来ないと思われる。
つまり、日本聖公会京都教区は法憲法規を無視するという仕方
において、明らかに日本聖公会の法秩序に違反しているにもかか
わらず、日本聖公会の管区や主教会が沈黙しているのは何故なの
だ。今度は、事件が事件だけに、この点をもジャーナリズムが記
事にすることもあり得るだろう。それは何も、スキャンダラスな
ことを書き立てて日本聖公会を追求しようとすることが目的なの
ではなく、女児に対する性的虐待という重大な犯罪の、その重大
性を認識していない日本聖公会を、国家の法秩序に反するものと
して社会に明らかにしようとすることに他ならない。
他の教区の幼稚園や日曜学校で、同じようなことが起きても、
当該教区が京都教区と同じようにすることを恐れているからに他
ならない。ここに重大な問題がある。最近の若い夫婦は、ネット
上の情報をかなり緻密に集めている。来年度の幼稚園の入園希望
者の数が激減することも考えられる。それだけではない。日曜学
校の生徒数にも変化があるかもしれない。「だから騒がない方が
いい」と考えている主教や司祭は、明日の朝にでも辞表を提出し
た方がいい。犯罪を隠蔽すると言うことの犯罪性をまったく認識
していないとにうことになる。
府庁が動かなければ、京の人々は他の場所へ逃げた方がいい。
日本聖公会京都教区は、羊よりも自分のことが大事な羊飼いしか
いなくなってしまったようだ。司祭が車に乗るなとはいわない。
しかし、司祭が高級車に乗っていてどうする。いつだったか<2
ちゃんねる>という掲示板に「高級車に乗るんだったら他にお金
の使い道があるでしょ」と<いいたい放題>というブログの設置
者の風来坊に言っていたのがいるが、風来坊と天狗を混同してい
たようだな。そして、風来坊に「自分の自転車は中古の高級車だ」
と言い返されていたな。天狗の車は5ナンバーの大衆車だ。そし
て中古車をある篤志家が彼に与えたものだそうだ。軽で東京と地
方を彼奴は往復していたからな。
S教会の牧師は高級車に乗っているのか?そして、その車をな
んと幼稚園の園庭に止めているそうだな。息子に買い与えた数百
万もする楽器?を幼稚園の会議室に置かせているそうだが、公私
混同も甚だしいとしか言いようがない。ある時期の天狗は、一ヶ
月の副食費が3千円から5千円だったという。ほとんど米しか食
べていなかったのだろう。天狗が何をしているか、日本聖公会京
都教区の司祭で知っている者がいるはずだ。そして、何故彼がそ
うした生活しかできなくなったかも知っているかもしれない。彼
奴は俺達の寄付行為を断った。
今は普通の生活をしているようだが、彼奴のしている研究が、
「みんなで仲良く一緒にしましょう」というような聖公会チック
なものでないことは、彼を知っている司祭たちは判っているはず
だ。そして、日本聖公会京都教区の司祭達の中で、かつてはそう
した生き方をしようとして、1年間、ただひたすら神学の研修に
過ごそうとしていた天狗を、「社会に目を向けない」と言って、
かなり過激に侮辱してたのがいるだろう。自分たちが目を覚ませ。
もう昼寝の時間は終わった。お主らがいま立ち上がらなければ、
あの性的虐待の被害者とその家族は、心から笑える日が来ないか
もしれない。拙者は名前も判っているし、どの教会に勤務してい
るかも判っている。近藤さんも土方さんもだ。安楽な生活の安住
して、被害者の苦しみから目を背けるな。
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