日本聖公会管区の小審判廷は、3月3日に開かれる
審判廷を非公開にするそうだ。「聖公会らしいやり方
だな」と知り合いの牧師が言っていた。都合の悪いこ
とはすべて、信徒にさえ知らされることはない。この
審判廷に、関心のある信徒が押し掛けてきて、それを
ご自分の教会に帰って報告したら、大変なことになる
と考えているのかもしれない。
あり得ることだろう。何しろ日本聖公会は小さな教
派だから、全国レベルでの研修会などで顔を合わせて
いる信徒も多い。加害司祭を知っている信徒は京都教
区だけではないだろう。そうした人々のうち10人も
集まってきたら、審判廷の審判内容如何では、大騒ぎ
になることは間違いない。既に、確定した高等裁判所
の判決と加害内容に関して知っている他教区の信徒は
大勢いるだろうと思われる。日本聖公会とは関係のな
い拙者や近藤さん、土方さんのブログに毎日アクセス
していた方たちがいらっしゃるが、その多くは日本聖
公会の信徒であろうと思っている。
被害者の家族の代理人のホームページや「糾す会」
のホームページ、あるいは事案の関係者と思われる方
々のブログなども複数ある。皆、心配して、悩んで、
そうしたネット上の情報を得ようとしているのだろう。
それもひっそりと、陰に隠れるようにして覗いていらっ
しゃったのではないだろうか。そして教会では、ただ
ひたすら沈黙されていたように思える。それは、あの
事案に関することを発言すれば、教会からパージされ
る可能性があると思っていらっしゃるからかもしれな
い。しかし、もしそれが本当であるとしたら、日本聖
公会は既に、キリストの教会ではなくなっている。自
由な発言が出来ないところに、福音はない。抑圧と収
奪しかあり得ない。
それだけではない。日本聖公会の教会では、すべて
の信徒に公開されるべき情報が、一部の信徒の中だけ
に伝えられ、それでいて秘匿命令が下されることがあ
るという。教会委員や教区会代議員は貴族扱いなのだ
ろうか。ある日本聖公会の教会で教会委員が教会を去っ
たケースをいくつか知っている。「去った」というよ
りは「追い出された」といった方がいいかもしれない。
すべて、司祭の方針との意見の差が原因だったという。
主教はキングで、司祭はナイトなのだろうか。それと
も他に、影の封建領主がいるのだろうか。日本聖公会
は近代市民社会の宗教ではないらしい。
あの事件は間違いなく犯罪行為だったと高等裁判所
は考えたから、あの判決が出たのだろう。違法行為で
なければ、請求額の満額を認め、仮執行宣言付きにな
るはずもない。それを、最高裁の上告却下の後しばら
くしてから、「謝罪の記者会見」とやらを開いたが、
加害司祭は「陪餐停止」で済んでいる。常識的に考え
れば、即刻「終身停職」にすべき所であるにもかかわ
らず、「終身停職では、5年後に復職できる可能性が
ある」という理由で、法憲法規にない「陪餐停止」を
主教が加害司祭に課したのだが、その時に自分たちに
対して課した「減給処分」の額をいまだに公表してい
ないらしい。
そして、日本聖公会の信徒と思われる人物は、アメ
リカで起こったローマ・カトリック教会の性的虐待事
件に比べれば、日本聖公会の問題など大したことでは
ないという内容の書き込みを、一時期、ネット上にし
ていた。聖職者が聖職者なら、信徒も信徒だ。全員が
そうだとは思えないが、なぜ加害司祭を「終身停職」
にするよう主教に申し立てる人がもっと出てこないの
か。ネット上で公開されている裁判記録の「閲覧報告」
には、間違いはないという。これは閲覧してきた人物
からの情報だから間違いないだろう。彼は嘘を付いて
も何の利益もない。
そして、加害司祭は被害者に対して謝罪文を書いて
いるのだ。これだけで証拠は十分だろう。それにも拘
わらず、日本聖公会京都教区は加害司祭を「終身停職」
にしなかったのは、しなかったのではなく、出来なかっ
たからだという見解もある。仮に、加害司祭が日本聖
公会の聖職者達の裏の出来事を知っているとしたら、
誰も加害司祭を「終身停職」には出来ないだろう。し
かし、不幸なのは、「大したことはしていない」とか、
加害司祭は裁判に訴えられて「むしろ被害者だ」と思
わされたり、既に問題は解決していると信じ込まされ
ている信徒の方々だろう。そして、聖職者達は、日本
聖公会の集まりの中では、この事件を深く反省し、こ
うしたことが二度と起こらないように努力していると
発言しているが、彼らは特定の被害者とその家族に対
しては、未だに正式に謝罪しているようには見えない
し、被害者の家族が要求している「加害司祭を復職さ
せる決定をした時の常置委員会議事録の公開」を未だ
に果たしていない。
これでは、結局は、日本聖公会京都教区は性犯罪を
裁けなかったことになる。何しろ、判っているだけで
も被害者は6人いる。これは、被害を申し立てた人の
数だ。このことの意味を日本聖公会京都教区は知って
いるのだろうか。あるいは、日本聖公会の主教会はそ
れを認識しているのだろうか。「終身停職」という懲
戒処分を課したら、退職金の返還をしなければならな
かったから、「陪餐停止」という曖昧な「処分」にし
たのではないのかと考えている人々もいる。それが的
を射ているかどうかは判らないが、少なくとも日本聖
公会京都教区は性犯罪を裁けなかったことは事実であ
るし、未だに被害者やそのご家族との間に和解が成立
していないのを放置している日本聖公会にも、同じこ
とが言えるだろう。管区の小審判廷に期待しているの
だが、いかがなものだろうか。
風来坊氏に日本聖公会のある教区の機関誌の一部を
スキャンしたものを送ったら、風来坊氏はさっそくそ
れを取り上げてくれた。あの文書には日本聖公会京都
教区が真剣に性的虐待行為の問題に対処しているがの
ように書かれているが、明らかに情報操作をされた信
徒の方が書かれたのだろう。インターネットで、様々
な情報に接していなければ、あの日本聖公会京都教区
での、現職司祭が長年にわたって行っていた児童への
性的虐待の実態と、それに対して日本聖公会京都教区
がどのように対処してきたかを客観的に知ることは難
しいのだろう。
こうした機関誌を、前もって教区主教は読んでいな
いのだろうか。もし読んでいなかったとすれば、そこ
には重大な誤りがある。主教は教区の司牧者であるの
だから、信徒や聖職が誤った理解を持っていたら事前
にそれを訂正する義務があるだろう。あれを読んだ当
該教区の聖職や信徒は、「謝罪の記者会見」以来、まっ
たく自体は進展していないどころか、ますます加害司
祭を擁護しているとしか思えない行動を続けているよ
うに見える。そもそも、被害者のご家族が見てもいな
い文書を、被害者の了解を得て配布していると記して
あった京都教区の主教文書などは、その典型だろう。
と同時に、加害司祭が書いた被害者とその家族への謝
罪文の内容を知ってか知らずか、「事実無根」だとか
「冤罪」だとか日本聖公会京都教区言い続けていた。
そもそも、教区主教はあの性的虐待による慰謝料請
求裁判を一度も傍聴に行っていないし、少なくとも去
年の12月5日に鞍馬天狗が閲覧するまでは裁判記録
さえ閲覧していない。日本聖公会京都教区のどこに誠
実さがあるのか、まったく判らない。裁判記録には、
原告と被告の双方が発言したり、書いたものが残され
ている。それを閲覧することもなく、この問題に対処
していることを日本聖公会は知っているのだろうか。
あるいは、日本聖公会の主教会は知っているのだろう
か。児童に対する性的虐待行為が、その申立のすべて
を高等裁判所が事実であると認定し、慰謝料請求額の
満額を支払えという判決が、仮執行宣言付きで出され
ていたのだ。
被害者の数は、日本聖公会全体の信徒の数からすれ
ば少数であることは間違いない。しかし、こうした少
数者が、少数者であるが故に担わなければならない重
荷を、日本聖公会はまったく理解していないというこ
とが、いままでの一連の経緯ではっきりしている。近
いうちに、管区の小審判廷に対する申立に関して、そ
の管区の小審判廷は結論を出すだろう。その時には、
日本聖公会の少数者に対する考え方がはっきりしてく
る。同性愛者を「性的少数者」として支援し、そのプ
ロジェクトの一環として「性的少数者とともに捧げる
聖餐式」を容認している日本聖公会の管区であれば、
性的虐待の被害者を擁護しないはずはないだろうと、
楽観的に考えているのは拙者だけであろうか。
ある日本聖公会の司祭から聞いたことがあるが、
主教判断で祈祷書の一部を変更して礼拝で用いるこ
とが出来るという「暗黙の了解」が日本聖公会には
あるらしい。このこと自体は他教派の習慣だから、
日本聖公会以外の人間がとやかく言うつもりはない。
しかし、これでは日本聖公会は困らないだろうか。
日本聖公会は祈祷書で一致しているのであって、神
学で一致しているのではないという見解も耳にした
ことがある。つまり、日本聖公会の一致が祈祷書で
あるのであれば、主教はその一致点をも当該教区内
で変更することが出来るということになる。
「それが日本聖公会の伝統なのだ」というのであ
れば、日本聖公会は神学においても、教会法におい
ても、教会としての根本的な基準がないことになる
だろう。聖公会の「綱憲」の第1に「旧約および新
約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る要道
を悉く載せたものと信ずる。」とあるが、アポクリ
ファはどうなるのだろうか。アポクリファを聖書と
して認めるのか認めないのかで、教理的には実に大
きな相異が出てきてしまうのだが、これに関しても
教区主教の判断なのだろうか。あるいは、ニケア・
コンスタンチノポリス信条の「フィリオクエ」もし
くは「フィリオケ」、あるいは「神よりの神」に関
しては、日本聖公会では主教判断で自由に唱えたり
唱えなかったりすることが出来るのだろうか。
ローマ・カトリック教会でさえ、こうした極めて
重要な部分に関しては、教皇が最終判断をする前に
長い時間と多大な労力をかけて神学的議論が為され
るのだが、日本聖公会では、教会の生命線とも言え
るこうした問題に関して、すべて主教が判断できる
と考えているのであれば、主教は極めて高度な神学
的知識を保っていることが条件になるはずなのだが、
主教候補者になるための試験があるということを聞
いたことがない。「変えなければいいのだから、そ
うした知識は必要ではない」という意見もあるかも
しれないが、「神学的熟慮なしに、教会の教理に関
する重要な判断を主教がすることが出来るのである
とすれば、それこそ正にカルト性を日本聖公会が保っ
ている証拠だろう」と言っていた方がいた。
こうした基本信条を、牧師が自由に変えられると
いうプロテスタントの教会に出会ったことがない。
東方教会系の方が礼拝に出席して、「フィリオクエ」
の部分を読まなければ陪餐したいと申し出られたら、
その時は「フィリオクエ」の部分を読まないという
教会があることは知っているが、それもかなり厳密
な議論をして、教会として決定したことであって、
ただ牧師が独断で決めたことではないという。そう
したことと対比すると、日本聖公会の神学的営為自
身を根本から疑いたくなる。また、そうした厳密な
学としての神学を無視している教会で、児童に対す
る性的虐待事案を裁けないのは当然なのかもしれな
い。願わくは、主が被害者とそのご家族と共にいて
下さり、深い慰めを与え給わんことを。アーメン。
管区審判廷はどうするつもりなのだ。京都教区は
審判廷申立を却下した。その却下の理由は極めて稚
拙な策謀であることは誰が見ても明らかなことだ。
心ある人々の申立を心ない人々の策謀で却下した。
被害者を特定できないのは、審判廷の長である主教
や常置委員会が、被害者の個人情報を公表していな
いからだろう。確かに、被害者の個人情報を秘匿す
ることは、事案が事案だけに極めて重要なことなの
だが、そのことによって加害者が庇護されてしまう
のでは、本末転倒と言わざるを得ない。
教区主教をはじめ、京都教区の中枢にいる人々が
被害者の氏名などを知っていることは、主教や常置
委員会自身が発表した文書で明らかなことだ。まさ
か彼らはそれを忘れたわけではあるまい。だとした
ら、少なくとも管区審判廷は、京都教区に対して差
し戻し審を命ずべきではないのか。ここで管区が、
同じ理由で申立を却下したら、いままで何人もの人
々が推察していたことが事実であるということを表
明してしまうことになるという、極めて恐ろしい事
態が発生する。特定の宗教団体の中で、その宗教団
体が保つ教理を利用して、女児に対して性的虐待を
し続けた聖職者を無罪放免にしてしまうことになる。
そろそろ管区の見解が明らかになることだろう。
まさか申立を無視することはないだろうが、その対
応如何では、日本聖公会自身が社会から大きな問い
を受けることになるだろう。ここ数年来、アメリカ
のみならず、アフリカでも児童に対する性的虐待が
あり、ヨーロッパでもこれが大きな問題として捉え
られていて、日本でもこの種の犯罪を防止するため
の手だてを法制化しようとしている。そうした流れ
に抗するかのように、日本聖公会があの性的虐待を
し続けていた司祭を、審判廷で正式に処分しないと
いうことは、極めて重大な問題だと言わざるを得な
いだろう。
中には「処分しない」のではなく、「処分できな
い」のだろうと言う人々さえいる。この性的虐待事
案を公式な俎上にのせると、様々な問題が露見して
しまう可能性があるからだと言うことも聞こえてく
る。そうした危惧に対して、日本聖公会ははっきり
とそれを否定できるだけの行動を採らなければなら
ないだろう。何よりも大事なことは、被害者を守る
ことだ。被害者が少しでも癒されることを心から願
い、それを成就するための方策を一心不乱に考える
べきだろう。いまこの時もPTSDに苦しんでいる
被害者がいるという事実を、日本聖公会は謙虚に、
そして誠実に受け入れ、審判廷申立に対処すべき
なのではないだろうか。
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