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Posted by 沖田 総司 - 2008.03.17,Mon


 世俗の組織の上に立った人間はこんなもんだな。日本聖公会など

その典型だろう。主教は自分の地位にしがみついて、司祭だろうが

執事だろうが、挙げ句の果てには信者までも黙らせようと躍起になっ

ている。自分の地位を確保しておくためだろう。もちろん被害者の

ことなど考えていない。被害者のことを考えていたら、こんなこと

は出来ない。ただし、被害者といっても六人目の被害者だけは別だ。

アポなしで原田に会いに行っている。この六人目の被害者、去年の

夏になって現れているが、一体どこの誰なのか。


 二つの推測が成り立つ。

 一つは聖光教会もしくは聖光幼稚園の関係者だ。裁判を提訴した

被害者が通っていた教会の関係者ではないことは、拙者の密偵が調

べてきている。聖光教会では長いこと箝口令が敷かれ、ほとんどの

信者が問題を知らされていなかったり、原田が「虚言癖」をもった

人の被害にあっていると思い込まされていた。しかし、何かのきっ

かけで原田が性的虐待裁判で、要求された慰謝料の全額を支払わさ

れる判決を受けたことを知り、心の中にあった怒りを高地主教にぶ

つけたのだろう。当然のことをしただけのことだが、京都教区の対

応が極めて遅く、稚拙なので、業を煮やした六人目の被害者は、原

田に直接会わせろと要求した。今までの、事件への高地主教の対応

を考えると、このような要求は受け入れないはずなのだが、何故か

高地主教と常置委員会はこれを受け入れ、アポなしで原田の居所を

訪ねた。


 京都教区にアポなし訪問をさせることをさせた、その動機付けは

何だったのか。去年11月23日の「常置委員会特別報告」には記

されていないが、記さなかったのではなく、記せなかったのではな

いのか。つまり、その動機付けになったものは、京都教区にとって

も原田にとっても、極めて重要な意味を持っているということだろ

う。11月2日に原田に会いに行って、直接被害者が被害を訴えた

ら、原田はその場で謝罪文を書いたという。原田に謝罪文を書かせ

たのは京都教区主教や常置委員会ではなさそうだ。もっと別の理由

があったのではないのか。それも、あの高地主教をして原田の所へ

アポなしで行かせる理由があったのではないのか。


 原田がした犯罪行為の最高刑は、それが刑法第178条の規定に

よるものに該当するとすれば、懲役10年だ。だとすると、現行の

刑事訴訟法では、時効は7年になる。しかし、原田が性的虐待をし

ていたのは、1983年頃から1988年までであるから、当時の

刑法では最高刑は7年である。そして、当時の刑事訴訟法での時効

の成立は5年ということになる。この改正が行われた後、施行され

たのは、2005年1月1日からである。高地主教が常置委員と六

人目の被害者とその付き添いの方を連れて、アポなしで原田に会い

に行ったのは、2007年11月2日のことだが、この六人目の被

害者に対する加害行為に関して、この2007年11月2日の段階

ではまだ刑事時効が成立していなかったのではないのか。でなけれ

ば、あの高地主教が被害者とその関係者、そして常置委員を連れて

アポなしで原田に会いに行っただろうか。この六人目の被害者への

加害行為が2002年11月以降のものであったとしたら、アポな

しで行った時にはまだ刑事時効は成立していない。そして、重要な

ことは、この刑法第176条の事案は「親告罪」だということだ。

被害者に公訴を提起する気がなくなれば裁判にはならない。

 

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Posted by 沖田 総司 - 2008.03.15,Sat


 「主日の御言葉」というブログに説教が記されているが、「聖公

会にはああいう説教の習慣はない」と言っている司祭がいるそうだ

が、いつものパターンだな。日本聖公会としてきちんとした神学的

コンセンサスはないのに、自分が知り得ている知識が聖公会だと思

い込んでいる司祭が多すぎる。「マリア信仰」に関して、聖公会と

ローマ・カトリック教会が歩み寄ったとしているが、天使祝詞を唱

えることは「偶像礼拝だ」と考えている司祭や信徒が日本聖公会の

中にいることははっきりしている。ハイ・チャーチとローチャーチ

の相異かもしれんが、日本聖公会に共通した神学的基盤はないだろ。


 そもそも日本聖公会を一致させているのは祈祷書であって神学で

はないというのが、日本聖公会の神学ではないのか。だからこの祈

祷書以外の、たとえば綱憲なども単なる指針で、洗礼と聖餐という

二つだけを聖奠としている「綱憲」に反する見解を持っている司祭

もいるだろう。拙者が知っている司祭は「残りの五つは準サクラメ

ントです」とはっきり言っていたぞ。それも一人や二人ではない。

何人もの司祭の口からそれを聞いた。そして、その後で必ず口から

出てくるのは、考え方の異なった司祭を「あの人の考えは聖公会の

神学から少し離れている」という言葉だ。


 では一体、「聖公会の神学」というのは何なのか。それを質問す

るとほとんどの司祭は口を閉ざす。そして最後には「ローマ・カト

リック教会と交わり」を口にして、自分たちを正当化しようとする。

しかし、ローマ・カトリック教会の『新教会法典』やディンツィン

ガー&シェーンメッツァーの『カトリック教会文書資料集』を座右

においている司祭はどれくらいいるだろうか。拙者が知っている限

りではほとんどいないように見える。あっても中を開いたことがな

いという司祭もいるようだ。所謂『公教要理』さえ読んだことがな

い司祭もいる。そういえば、日本聖公会に『公教要理」に該当する

ような文書があるのか。まさか『三十九箇条』がそれだとは言わな

いだろうな。司祭の中で、『三十九箇条』の原文が手元にあるとい

うのが何人いるか。そして、『三十九箇条』の神学を受け入れてい

ない司祭が何割いるか。


 あの「主日の御言葉」というブログにあるものを聖餐式で使うな

よ。みっともないぞ。それから、あれを批判というか非難するなよ。

そんな時間があったら、しっかりと説教の準備に時間をかけろよ。

明日の説教はもう出来上がっているだろうしな。土曜日になって書

き始めているようでは、ろくな説教はかけないぞ。そして、毎日、

半日は書斎にいろよ。他人の神学の受け売りをするなよ。信徒があ

れを読んでいるかもしれないからな。毎日かなりの数のアクセスが

あるようだ。おそらく、日本聖公会の信徒が読みに来ているのだろ

う。それは仕方がないな。あのメヒコ佐々木という司祭はそれが目

的で書いているみたいだ。日本聖公会の教会を離れて、しかしどこ

の教会へも行っていない信徒のために書いているように思える。神

学がなければ信徒は躓く。当然のことだ。皆、信仰の世界を知りた

くて教会へ来ているのだからな。

Posted by 沖田 総司 - 2008.03.10,Mon


 「貧困の神学」であれば大いに関心があるが、「神学の貧困」で

は話にならん。鞍馬天狗さんのブログを読んで唖然とした。日本聖

公会はあまりにもお粗末だ。注解書のことも、インストラクターの

ことでも、何でも聖公会が一番だと思いこんでいる司祭がいかに多

いかということがはっきりしている。


 そう言えば「ノーベル賞を狙う男」というブログにすごいことが

書かれていた。ホットケーキと紅茶で聖餐式をしたそうだが、単な

る遊び心でしたのだろう。映画のシーンでもミサが出てくることが

ある。別に司祭が司式しているわけではなく、俳優が演技としてし

ているのだから、大した問題ではない。そして、あのホットケーキ

と紅茶では聖餐式にはならないだろうし、そこに聖餐式であるとい

うインテンションがあったわけでもないだろう。ただ、問題はどう

いう式文を使い、どういう聖別祷をしたかということは大きな問題

だ。日本聖公会の祈祷書の中の「パン」「杯」というところを「ホッ

トケーキ」「カップ」と置き換えたのだろうが、この置き換えて祈

るということを司祭がやったのだとしたら、司祭としての品格が問

われる。ただし、問題はそこに止まらない。


 「パロディ」という言葉があるが、パロディ自体は何ら問題がな

い。しかし、聖餐式を司祭がパロディとして行ったのだとすれば、

そこには極めて重大な問題がある。聖餐式はミサの翻訳語だろうが、

何故司祭がミサをパロディに出来るのか。この「出来るのか」とい

うのは、それをすることの可能かどうかが問題なのではない。司祭

にとって一番大事な任務はミサを挙げることだろう。サクラメント

であるその重大な任務を、司祭自身がパロディにしたということは、

司祭職を冒涜しているとしか思えない。映画やドラマの中で、司祭

がミサをするのとはまったく異なる。結婚式場などで宣伝用のビデ

オ撮影をする時に、司祭や牧師に司式者になってもらうことがある。

素人が司式者を演じたらまったく雰囲気が変わってしまうからだが、

あれには、インテンションはまったくない。だから、結婚の宣言を

したとしても、何ら問題にはならない。しかも、結婚式のパロディ

でもない。


 そしてここには、それ以上に重大な問題があると思われる。それ

は、このホットケーキと紅茶で聖餐式のパロディをした司祭に対し

て、主教は何の処分も下していないということだ。日本聖公会にとっ

てミサは、どうでもいいものなのか。そうではないだろう。「綱憲」

の中でミサはサクラメントだとはっきりと宣言されている。信徒が

面白がって、ホットケーキと紅茶でミサの式文を勝手に改編して遊

んだのと、司祭がそれをしたのとでは意味がまったく異なる。日本

聖公会は、ミサの神学があるのか。この極めて重大な神学的問題を

何故、日本聖公会の主教会は日本聖公会全体の問題として考えなかっ

たのか。これほどまでに教会にとって重大な問題をも隠蔽している

日本聖公会に、現職司祭による女児への性的虐待を問題に出来ない

のは当然かもしれないが、もしそうであれば、日本聖公会はキリス

ト教会として一から出直した方がいいし、まして「聖公会はプロテ

スタントの雄」などと口にしない方がいい。ミサに関しては、歴史

上の教会は、緊急洗礼のような規定を持った時代があったというこ

とを拙者は聞いたことがない。

Posted by 沖田 総司 - 2008.03.07,Fri

 

 いまだに「格が上」とか「由緒正しい」とかいう言葉が使われて

いることがある。日本の社会は面白いもので、国民全員に「一列に

並べ!」と号令をかけたら、何年かかっても一列に並ぶことは出来

ないだろうが、「イエの格順に並べ」と号令をかけたら今でも並べ

そうだ。もうかなり以前に「タテ社会の人間関係」という本を書い

た女史がいるが、日本人の心性を深く剔っている本のように拙者に

は思える。そして、日本の社会には、いまだにあの「タテ社会」を

維持していようとする心性が一人々々に宿っているからのように見

える。日本聖公会の教会は、外から観察しているとしっかりとそれ

が見えてくる。主教制だからではない。あるいは独特の聖職者制度

があるからでもない。極めて日本的な発想がそこにあるからだ。日

本のプロ野球の世界では、年功序列、それも徹底した年齢序列制度

で維持されていると書かれていた本を読んだことがある。もとプロ

野球の選手が書いたものなので、あながち間違いでもなさそうだ。

前年の成績や、その時の成績でもない、単に誕生年月日がいつかと

いう正に年齢序列なのだが、基準がその誕生年月日ということが一

つしかないから、実にうまく機能しているらしい。最近でもこれは

変わっていないと聞いた。そして、これに近いものが日本聖公会の

中にあるように思える。ただし、基準は年齢ではない。まず、主教

・司祭・執事の「格」の相異である。あの原田文雄司祭が「執事に

昇格」「司祭に昇格」と書いていたというが、彼らの中にはこれが

基本的に残っている。しかし、これに付随している基準が「按手」

である。いつ「司祭按手」を受けたかということであり、これは年

齢とはまったく関係がない。


 そして、原田文雄司祭が「昇格」という言葉を使っているように、

これが日本聖公会の中で確実に機能しているのだが、これが極めて

日本的なものであって、何ら聖書的なものではないということに日

本聖公会のほとんどの聖職は気がついていない。だから、様々なと

ころで様々なヒトやコトあるいはモノに格付けをしている。礼拝で

使う香についてさえ、「イギリスから輸入されたものだ」と自慢げ

に話をしていた司祭がいた。そしてこのことを別の司祭に話をする

と、「自分は礼拝で香を焚くことはないからあまり関心がない」と

いう答えしか返ってこなかった。聖公会では、礼拝で香を使うか使

わないかに関する規定はないから(一部では不文律があるかもしれ

ないが日本聖公会はそうした不文律を法憲法規では認めていない)、

香に対する関心が薄いのかもしれないが、この発想の裏にある大き

な問題性に気がついていないようだ。実に興味深いことだが、ある

司祭はラーメンの味に関しても、ある店のラーメンの味を激しく貶

していたことがある。そして彼らは、「使徒継承」ということを時

として自慢げに話をする。そこまでならまだ笑って過ごせるのだが、

彼らの中には「使徒継承」ということを、確実な史実として考えて

いるのがいる。そして、按手と同時に、様々な人間的な能力が増し

加えられるかのように考えていることがある。


 こうした日本聖公会が、ヒトに対しても格付けをするのは当然だ

ろう。六人の被害者のうち四人への加害行為に関しては原田文雄司

祭に認めさせ、残りの二人に関しては「事実無根」を主張する原田

司祭を徹底的に糾弾することもなく、すごすごと帰ってきてしまっ

たのは、犯罪行為の被害者に対しても格付けをしているということ

にしかならないということが判っていないからだろう。また、拙者

が漏れ聞いたところでは、横浜教区出身の武藤主教に対して、かな

り強行に「事実無根」を主張した原田文雄司祭の中には、京都教区

出身者であるかどうかということの「格付け」があって、横浜教区

出身の武藤主教に対して、ある種の攻撃性があったようにも京都市

中で囁かれている。そして、高地主教の中には、確実に「主教無謬」

説が根付いている。でなければ、最高裁の上告却下以後の言動を説

明することが出来ない。昨年の1月29日付けの公式文書にある、

いくつかのウソを説明することが出来ない。あれだけのウソを並べ

ることは、「主教無謬」説でも保持していなければ、尋常な思考で

は出来ないことだ。


 京都教区の性的虐待事件とそれに対する京都教区の対応について、

他の教区の多くの司祭が沈黙している理由は、このあたりにあるの

かもしれない。それでも、「糾す会」に対して励ましのメールが届

いているということも聞いている。いつの頃から極めて日本的なも

のに変わってしまった「主教制」が、極めて日本的なタテ社会を作

り出し、犯罪の被害者に対しても格付けが行われている現実を、し

かし、日本聖公会の聖職者達は危機感をもって、何故、真剣にその

問題性を解決しようとしないのか。沖縄の事件には積極的に発言し

ているにもかかわらず、京都教区で現職牧師の性的虐待行為による

PTSDに苦しんでいる姉妹を何故、全力で助けようとしないのか。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の

中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からお

が屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸

太があるではないか。」(マタイ7:3-4)という聖書の御言葉

が聞こえていないのだろうか。そして、あの御言葉の後には次の言

葉が続いている。

 「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっ

きり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことがで

きる。」

 聖書の御言葉に反する伝統を、聖公会は破棄したはずではないのか。

 

Posted by 沖田 総司 - 2008.03.05,Wed

似非左翼(サヨク)

 『キリスト新聞』の3月8日号の3面に「日本聖公会正

義と平和委員会」「同ジェンダープロジェクト」「女性に

関する課題の担当者」の名前が上がっていて、そこに沖縄

での暴行事件に関する抗議が出ている。「『軍事基地があ

る限り、市民の日常生活は直接間接的に脅かされる』とし、

『人間の尊厳を踏みにじることは、神の創造を傷つける罪

であると信じる立場から、女性に対するあらゆる暴力を許

すことはできない』と指摘。「『被害者への謝罪と補償』

『日本の司法による加害者の処罰』『被害者とその家族を

守る手段を講じること』「日米地位協定の見直し』などを

求めた。」と書かれている。


 これは、本気で言っているのか。ここに名前が出ている

人たちがどういう人たちか判らないが、京都教区で起こっ

ている重大な人権侵害事件をどう考えているのか。自分た

ちの教会内のことは問題にせず、沖縄の問題に口を出して

どうするんだ。特に後半部分は、京都教区に言ってやるが

良いと思うが、如何であろうか。「謝罪の記者会見」を開

いたはずの主教は「嘘も方便」とばかりに、虚言に満ちた

公式文書を全国に流し、被害者とその家族を未だに苦しめ

続けている。これは、被害者の父親と会ってきたという天

狗から直接聞いたことだから間違いないだろう。天狗が嘘

をついても、何の得にもならない。<ノーベル賞を狙う男>

というブログでは、「聖公会側は、原田司祭を庇い、被害

者感情を逆なでし、疑義を持つ信徒を教会から追い出さん

ばかりの態度。そんな教団は、人権問題に御熱心なNCC

から即刻除名すべきでしょう。こんな連中がいる教団が加

盟して、NCCは構成され、こんな連中がいる教団から人

間が派遣されて各委員会が活動しているのです。」と書か

れているが、拙者も同感だ。仁も義も礼も智もない。ただ、

「追い出さんばかりの態度」ではなく、実際に追い出され

ている信徒がいると拙者は了解している。


 奴等は、結局は飯のために発言しているのだろうとしか

思えん。日本聖公会の中で発言しても、どこからも原稿依

頼は来ん。外で発言すれば、原稿依頼や講演依頼が来る。

愚かなことよ、奴等の考えていることは。中には、狭山裁

判に関する研修会?のパネラーになっていた司祭がいるそ

うだが、狭山事件の証拠開示を求めるのであれば、その者

は京都教区が常置委員会の議事録を開示することを要求す

べきなのだ。被害者は、PTSDが発症して以来、本当に

心が安まる時はあったのだろうか。家族とて同じことだ。

それを無視して、遠く離れた沖縄を語ったり、狭山裁判を

論じたりするとは、開いた口が塞がらんぞ。かつて、日米

同盟を批判し、自衛隊を批判し、原発を批判し、死刑廃止

運動を積極的に押し進め、署名運動を踏み絵にしてた輩も

いたそうだ。麻原や宮崎には人権があって、子供の時に性

的虐待を長期間受け続け、PTSDに罹患した女性の人権

は無視されているのが今の日本聖公会だ。


 奴等は結局「サヨク」だったな。自分たちの地位と名誉

のために、きれい事をゴタゴタ並べ立てていただけだ。因

みに、日本聖公会の司祭に、「教会は部落差別問題をどう

考えているのか」と質問してみるがいい。はっきりと自分

の意見が返ってくる司祭がどれくらいいるだろうか。主教

の中には、「うちの教区ではそうしたことがあるというこ

とを聞いたことがない」と答えるのが大勢いるだろう。

まぁ、これは日本聖公会に限ったことではないがな。拙者

がよく知っている教団では、来年、賀川豊彦の記念活動が

準備されているらしい。勿論それに反対している聖職もい

るらしいが、多勢に無勢であるし、そもそも「一般労働者

はこの教会に来なくていい」と言った牧師がいるとかいな

いとか議論になっているところだからな。それにしても、

日本聖公会はどうするつもりだ。『キリスト新聞』に名前

が出ている委員会などは、早急に京都教区の主教と常置委

員を審判廷に引き摺り出せ。被害者とその家族をここまで

苦しめているのだからな。

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